有名な「クリアリング会議」では、L. ロン ハバードによる9つの講演のうち、6講演が撮影されました。オリジナルのフィルムはほぼ50年前のものですが、特殊デジタル技術を駆使して、オリジナルの画質さえも超えるレベルにまで復元されました。それぞれのDVDと総合目次には、彼が会議で触れているデータと主題を的確に示す詳細なメニューが収録されています。専門用語やダイアネティックスとサイエントロジー用語の定義を掲載した用語解説も完備されています。総合目次には、フィルム講演で言及されている、ハバード氏による手書きのチャートや発行物、スケール、規律が、当時の発行物とともに収録されています。
また、ワシントンDCのショアハム・ホテルにおける当時の会議の様子を写した写真も掲載されており、オリジナルのイベントの雰囲気をうかがい知ることができます。「クリアリング会議」は、フィルムに収められた唯一の会議であり、サイエントロジーの歴史における画期的な勝利を記念するものです。そのすべてが鮮明なカラー映像でよみがえりました。
続きを読む「クリアーは限定された状態です。それは確かに限定された状態として存在します。それは究極のものであり、絶対的なものです。」― L. ロン ハバード
1958年の春に、まるでサイエントロジーの世界を通り抜ける津波のように、人々の間で広まったひとつの言葉がありました ― 「クリアー」です。
しかし、彼らが話題にしていたその成果については、最初に個人がその状態に到達したことよりも遥かに奥深いものでした。実際、L. ロン ハバードは『ダイアネティックス:心の健康のための現代科学』の発刊される前の1947年に始まって1949年まで、クリアーをつくり続けていました。実際に、ブック・ワンの全目的は、その飛躍的な前進と技術を広く利用できるようにさせることであり、それによって他の人たちも同じことをできるようにすることでした。
しかし、ハバード氏自身が個人的なオーディティングでクリアーをつくり続ける一方で、他の人たちが同じことを行うことはできませんでした。そのために、丸8年の間、彼はプロセスを洗練させ続けました。そうです。プリ・クリアーにより速い向上をもたらし、より深くまで届くプロセスによって大きな効果をもたらすために、彼はそうし続けていたのです。しかし、彼はまた、他のオーディターたちがうまく適用できるプロセスの開発に取り組んでいました。その結果、彼の調査の半分は完全にトレーニングに注がれていたのです。
この研究の物語が安定した前進である一方で、1957年のオーディターのトレーニング・ドリル(TR)の開発によって突破口が現れました。これはまさに文字通りに言うと、オーディターのトレーニングを根本的に改めたものだったのです(自由の会議)。
その事実の完全な証拠が、ブック・ワンの発表以来、8年間にわたるハバード氏の研究を遥かに超える業績でした。さらに、それは2,500年の間存在していたゴールへの到達を左右する分かれ目でもありました。
「1957年12月、私以外の人によって最初のクリアーがつくられました。
これこそが向上でした。このことが、この何年もの間に得られた成果だったのです。
今、私たちは数多くのクリアーを手に入れることができます。何千人ものクリアーを手に入れることができます。そして、もし私たちがそれを手に入れることができたら、私たちは文明を手に入れることができるのです。
ですから、これは障壁となっていました ― 他のオーディターたちは、人々を本当にクリアーにすることができなかったのです。そしてこの障壁は、粉々にされダイヤモンドの欠片になりました。
他の人たちは、他の人たちをクリアーにすることができます。ですから私たちは、成功に向かっているのです。」
それは1958年の前半6ヵ月を通して、この時期に期待は高まっていきました。サイエントロジストたちは「クリアーの達成」、「クリアーをどのようにテストするか」、そして「どのようにクリアーにするかを学ぶ」と題された記事を読んでいたからです。しかし、そこに、さらにドラマチックな物語があります。なぜなら、すべてのサイエントロジストが尊敬の念を持って、その最初の歴史的な達成の瞬間を振り返ることができる一方で、1958年にもたらされたすべてのことの中にさらに雄大な物語が含まれているからで、それが今日あるサイエントロジーなのです。
さらに、この到達の普遍性に関して今日あらゆるサイエントロジストたちが認めるもうひとつのものがありました。L. ロン ハバードが個人的にデザインし、製作した初めてのクリアー・ブレスレットです。
一方、さらに包括的なものとして ― ここには「サイエントロジーは何をする のか?」 という質問に対する、すべてのサイエントロジストのための正確な答えがありました。そして、すべてをこの一行で結論付けることができます。「そう、人々をクリアーにするんですよ。」
それはまた、クリアーのまさにその定義がプラカードに飾られて、なぜショ アハム・ホテルの西ボールルームの入り口に置かれたのかも説明してくれます。また、会議開始前までにかなりの数の幸運なホテル宿泊客たちがプラカードに魅了されて登録し、他の人たちとは違った形で会議に参加したのかも説明してくれます。
そして、1958年7月、部屋中に光が溢れ、カラー・フィルムを入れたカメラが回ります。彼がステージに上がってきました。講演は、「クリアリングの事実」です。
L. ロン ハバードはその後も、あらゆるビーイングが長い間探し求めていた目標に到達するのをより簡単に、より速くできるようにするために、四半世紀以上にわたって仕事を続けることになります。しかし、これこそが、不朽のものとなった達成の瞬間、クリアーが初めて実現した伝説的な会議なのです。